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もっと知りたい!「中央林間」~街の歴史編~

こちらの記事をご覧いただいている皆様、はじめまして。 今回より、「地元密着!」を合言葉にお得なマンション・住宅情報をお届けしている「センチュリー21中央ハウジング中央林間店」から、よりディープでためになるタウン情報を発信させていただくことになりました。 さて、栄えある第1回目は、当店の地元中の地元である「中央林間」エリアの詳しい街の歴史を紐解いていきたいと思います。

「街の歴史」と住まい選びの「気になる関係」

唐突ですが、皆さんは住まい選びの際、どんな点に着目するでしょうか?
その答えは人によって様々ですが、その土地やエリアが歩んできた「街の歴史」に注意を払う方はそれほど多くないかもしれません。
ですが、その土地・街が持つ「住みやすさ」や「地力」のルーツは「街の歴史」に秘められていたり眠っていたりするもので、時にはその土地を作った・区画した人の“隠れた意図”に気づき、より快適で便利な街に感じるようになることもあります。
「住まい選びの際は、まず街の歴史から調べてみる」
この言葉を裏付ける意味でいえば、この「中央林間」をはじめとする旧「林間都市」は、まさにモデルケースとして最適だと言えますね。
ん?「『林間都市』ってなんだ?」と思った方はいらっしゃいますか?
次のセクションからは、20世紀初頭に計画された幻の「林間都市計画」をクローズアップしてみましょう!

「田園調布」が公式ライバル? 幻の「林間都市計画」

「幻の」とはだいぶ仰々しいかもしれませんが、実は中央林間をはじめとする「林間」と名のつく地名は、かつて「林間都市」として計画・開発が行われた「計画都市」でありました。
この「計画都市」とは、「あらかじめ立てられた計画に基づき、新たに都市を人工的に作り出す」ことであり、その歴史自体は遠く紀元前のころから存在する「街づくり」の方法です。(例えば古代ギリシャの「ポリス」や日本でなら、「平安京」なども古い「計画都市」といえますね)
過去から現在まで、世界中に数限りなく存在する「計画都市」ですが、では、「林間都市」を計画したのは一体どんな人なのでしょうか?
その答えは、皆さんごぞんじ「小田急電鉄」(当時は小田原急行鉄道)の初代社長であった利光鶴松さん、その人です。
小田急の開業当時だった1927年(昭和2年)前後、日本ではちょっとした「計画都市」ブームが電鉄会社や不動産会社を中心に起きていて、その代表格が現在も高級住宅街として名高い「田園調布」でした。
(「田園調布」は1923年(大正12年)より分譲を開始)
もちろん、小田原線全線を一度で開業するなど、勢いに乗っていた小田急電鉄としても、そのブームに乗り遅れるわけにはいかない!と、大正時代のころから利光社長が温めていたプランがこの「林間都市計画」だったのです。
小田急以前は衆議院議員を務めていたこともある利光社長は、将来的な「首都移転」をも考えており、プランの第一歩として1929年(昭和4年)4月に小田急江ノ島線を開業することとなります。
ちなみに当時の「中央林間都市」という駅名が正式に採用されたのは、開業わ
ずか
1ヶ月前のことだったそうです。
(もともとは「公所(ぐぞ)」駅となる予定でした)
きっと利光社長だけでなく、計画に参加していた人々の中では「田園調布」がライバルだったことでしょうね。

「スポーツ+産業+高級住宅+緑=林間都市」だった?

そもそも、「田園調布」の場合、英国で提唱された「田園都市構想」(Garden City)に大きな影響を受けています。
当時イギリスでは、産業革命に伴い「仕事が多くある都市部」に人口が集中、多くの人々が貧困や劣悪な環境にあえぎ、「自然から離れた」生活を送らなければならないという問題点が生まれていました。
そんな中、1898年(明治31年)にエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard)は「都市と農村の結婚」をコンセプトに「田園都市」という概念を打ち出します。
この「職住近接型の緑あふれる都市づくり」は世界の様々な都市計画に影響を与え、日本でも若干のアレンジがされつつ広まっていきました。
その中のひとつが「田園調布」という訳です。
その「田園調布」に強く刺激を受けた「林間都市計画」の場合、もうひとつ独自のアレンジが加えられていました。
それは多くのスポーツ施設を持つ「スポーツ都市」であるという点です。
「林間都市計画」では、その名前の由来でもある、およそ百万坪とも言われる広大な雑木林に、住宅地の開発や雇用が見込める工場の誘致の他にも、テニスコートや野球場(4面)などを有する総合スポーツグラウンドの建設や力士養成学校の誘致などを進めていました。
中でも力士養成学校は、1931年(昭和6年)に早くも実現しましたが、翌年発生した相撲協会のトラブルのあおりを受け、すぐに消滅してしまったとのこと。
ひょっとしたら、中央林間を大勢の力士が歩く、なんてシーンを目にする機会もあったかもしれませんね。

さらば「林間都市計画」、なぜ駅名から「都市」が外れたか?

そんな鳴り物入りの一大プランだった「林間都市計画」。
しかし、この夢の都市が実現することはありませんでした。
駅のスタートからわずか12年後の1941年(昭和16年)、中央、南、東の各林間都市駅から「都市」の2文字が消滅し、正式に「林間都市計画」は中止となります。
当時の日本は「軍部」が国の中央・政権のど真ん中にいた時代であり、「軍都」としての都市計画が「林間都市計画」にとって思わぬ逆風となったことも原因のひとつです。
それだけでなく、江ノ島線の開業に遅れること半年後に開始された南林間都市駅周辺エリアの分譲は、購入者に3年間の小田急フリーパスなどの特典がつけられるなどのテコ入れにもかかわらず、
・都心から遠いこと
・長引く「昭和不況」と戦争の影響
・価格設定が高すぎたこと
などの原因から振るわず、小田急沿線の他の宅地開発に大きく後れを取るようになり、夢の「林間都市計画」は幻となりました。
しかし、運命のいたずらか、われらが「中央林間」はその後「計画都市」として復活を遂げることとなります。

まさかの返り咲き!40年後の大逆転、その後の「中央林間」の奇跡!

駅名から「都市」の2文字が消えてからわずか4年後、1945年(昭和20年)、日本は終戦を迎え「軍部」のない国として再出発します。
その後、皆さんもごぞんじの「高度経済成長」がやってくる中で、電車そのものの利便性が向上し、都心までの距離が「遠い」とはいえなくなってくると、これまでの「林間都市」が抱えていた問題点は次々に解消され、「宅地」としての需要が高まっていくこととなりました。
さらに、日本独自の特徴・現象といえる「ベッドタウン」としてマッチした旧「林間都市」は、皮肉にも駅名から「都市」が消えた後に「都市」としての発展を続けていくようになり、1984年(昭和59年)には、東急田園都市線が「中央林間駅」まで延伸することとなりました。
「あれ?田園都市線って?」と思ったあなた、大正解です!
この「田園都市線」は、東急(東京急行電鉄)が主体となり進められていた「多摩田園都市計画」の施策のひとつでもあります。
(もちろん前述の「田園都市構想」がベースとなっています)
40年の月日を越えて「林間都市」から「多摩田園都市」へ劇的な転身を果たした「中央林間」は、6年後の1990年(平成2年)には栄えある「急行停車駅」として昇格することとなります。
時代にほんろうされながらも、たくましく成長を続けてきたわれらが地元「中央林間」。
住みやすさのヒントは、この歴史の中にもきっと眠っていることでしょう。
これからも発展を続ける「中央林間」に住もう!住んでみたい!と思った方は、お気軽に当店までご相談ください。

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