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もっと知りたい!「南林間」~街の歴史編~

「地元密着!」を合言葉にお得なマンション・住宅情報をお届けしている「センチュリー21中央ハウジング中央林間店」がお送りするタウン情報も、今回が第2回! お次はお隣駅となる「南林間」周辺エリアの、より詳しい街の歴史に迫っていきましょう!前回に引き続き、幻の「林間都市計画」の核心に触れる情報も併せてご紹介していきますので、こうご期待!

「林間都市」計画の栄えある中心地「南林間」

「中央林間」・「東林間」そして今回の「南林間」と3駅にまたがった、20世紀初頭の一大都市計画「林間都市」。
駅名が中央だけに「中央林間」を中心に進められていたような気がしますが、実は計画の中心にあったのは「南林間」でした。
1929年(昭和4年)小田急江ノ島線の開業と同時に設置された「南林間都市」駅は、都市計画・ニュータウン構想においてメインとなる「住宅地」、それも「高級住宅地」として、豊かな生活の文字通り「要」とされていました。
そのため、開発のスピードも非常に早く、江ノ島線の開業が前述の1929年4月だったのに対し、「南林間」の宅地販売・分譲の開始はなんと同年11月!
実際に当時の区画表(土地価格分布図)を見てみると「南林間」はほぼ全域が坪単価9圓以上の高価格でした。
広くレイアウトされた「特等地」も多くあり、おいそれと手が出せる場所ではなかったようですね。
特に駅周辺は、人工的に道路・区画が碁盤の目状に配置されている点などから「他に先立って開発・宅地化が進んでいた」場所だということがわかります。
実は「南林間」って今でいう「グリッド・レイアウト」の街だったのです。
さらに、現在、相模大野駅や大和駅で行われる「電車の追い越し・追い抜き」は、当時、待避線を持っていた「南林間」駅の役目でした。
そんな所からも、都市計画だけでなく、江ノ島線全体にとって「南林間」が「要」だったことが分かりますよね。

あまりに「高すぎた」価格設定、振るわなかった「南林間」

所で、分譲が開始された後の「南林間」は、当時どれぐらいニーズがあったのでしょうか?
実はこれが「からっきし」といえる状況だったのです。
分譲を開始した1929年(昭和4年)から10年後、1939年(昭和14年)の時点では販売率約30%というお粗末な結果。
2年後の1941年(昭和16年)には、駅名から「都市」の2文字が外れ、計画が実質的には終了するのもやむなし、といったところでしょうか?
そしてその一因として「構想的に『リゾート地』としての扱いだったため、価格設定が高くなってしまった」ということがあります。
当時のキャッチフレーズは「神奈川県の軽井沢」だったのですから、雰囲気的にも「セレブ向き」になってしまったことがお分かりになるでしょう。
逆に今現在、この地域に住むことを考えた場合、ある意味これはメリットかもしれません。当時振るわなかった理由の多くは、現在ほぼ解消されているだけでなく、その後の発展により多くの利点も加わっています。
その一例として挙げられるのが「高いアクセス性」です。
このエリア、今では町田駅からJR横浜線、大和駅からは相鉄線、お隣の中央林間駅からは東急田園都市線など周辺駅での接続が充実しており、高い利便性を持っている地域となりました。
「たられば」のお話ですが、それらが実現したのは「当時宅地として売れなかったから」かもしれません。
仮に売れていれば、その影響で地価が高くなり、その後設備や路線のための用地買収などが高コスト化、開発回避なんてことになっていたかもしれない訳で…。ちょっと「ホッ」とした所で、次にいってみましょう。

「林間都市」以前はどんな場所だった?「南林間」夜明け前 ~古代編~

所で「林間都市計画」以前のこの地域、いったいどんな場所だったのでしょうか?
現在の「南林間」がある場所は、地理的に見ると「相模原台地」という所で、その成立はなんと7万年前と言われています。
その後、縄文時代を迎えると面白いことに、縄文初期~中期までは多く人が住んでいたのですが、縄文後期~弥生時代後期の間はあまり人が住んでいなかったことが、出土する土器の傾向から分かっています。
これは、「土地的に狩猟生活には向いているが、河川が少ないため農耕生活には向いておらず、稲作が主流になり始めた時期には人が住みつかなかった」ということ。
そして、奈良時代の律令制度によりこのエリアは「相模国高座郡」と呼ばれるようになります。
周辺で奈良~平安時代ごろの「竪穴式住居」が多く出土していることからも、徐々に人が増えていったことがわかります。
(この時代においても、農民の多くは竪穴式住居を使っていたようです)
当時、この辺りは一面の原野で、区域ごとに分けられた原野の中には「相模野」や「鶴間野」といったように今日おなじみの地名が見られるようになります。なんとなくですが「らしく」なってきましたね。
今後、この「高座郡」と「鶴間」という名前がこの地域の運命を分けることとなります。

「原野」から「雑木林」への転身 「南林間」夜明け前 ~近代編~

その後、鎌倉時代~安土桃山時代を経て、「鶴間野」は「高座郡上鶴間村」や「高座郡下鶴間村」に形を変え、江戸城に入った「徳川家康」の所領となります。
こうして江戸幕府の直轄地や旗本衆の領土としての役割が加わったこの「下鶴間村」ですが、近くに大きな河川がなく「稲作に不向きな土地」であるという点は否めませんでした。
しかし、領主の領土である以上、農民にとっては年貢を納めなくてはなりません。文字通り「年貢の納め時」を迎えていたわけですね。
そのため、江戸時代も中期を過ぎるころ、「下鶴間村」をはじめとする広い地域では苦肉の策として、水田ではなく畑地としての開墾が進められるようになります。
さらに、薪や炭となるクヌギの木などが多く植えられるようになり、これらが後の雑木林を形成するきっかけとなりました。
「南林間」をはじめとする地名のルーツは、江戸時代に作られたということですね。
その後、明治時代になると「下鶴間村」は、歴史の教科書でおなじみの「廃藩置県」により神奈川県に属することとなり、1888年(明治22年)には、周辺地域との合併により「神奈川県高座郡鶴見村」となります。
しかし、そのわずか3年後に分村騒動が起き、収集をはかるために「高座郡大和村下鶴間」に改称、その後大正~昭和を経て、「林間都市計画」により皆さんごぞんじの「南林間」となるわけです。

どうして離れ離れ? 大和市の「中央・南林間」と相模原市の「東林間」

このような紆余曲折の後に、ようやく落ち着いたかに見える「南林間」。
ですが「同じ元『林間都市』でありながら、なぜ大和市と相模原市に分かれているのか?」という疑問が残ります。
これは、前述の「鶴間」という地名に関係があります。
現在の「南林間」「中央林間」が属していたのが「高座郡大和村下鶴間」だったのに対し、「東林間」は「高座郡大野村上鶴間」に属していたことに端を発します。
この「大野村」、当時の高座郡の中では最大の面積を誇る村であり、小田急線の「相模大野駅」の名前の由来でもあります。
「下鶴間」が現在の大和市になっていったように、「上鶴間」は現在の相模原市への発展を遂げ、後の1941年(昭和16年)には「高座郡相模原町」となりましたが、年号を見てもわかる通り、このエリアにはすでに「東林間都市」という駅ができていたため、同じ「林間」同士でも飛び地のような状態になってしまった、というのが真相ですね。
古くは「林間都市計画」の中心となり、大和市や小田急江ノ島線の発展に貢献してきた「南林間」。
今もなおその面影を残す「南林間」に住もう!住んでみたい!と思った方は、お気軽に当店までご相談ください。

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